秋の珍道中第四日目~寂光院編~ [旅行]
そろそろこのあたりから、見学先が開院している時間だ。
建礼門院徳子隠棲のゆかりの地、大原寂光院を訪れた。
建礼門院は、平清盛の娘。高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である。寿永4年(1185年)、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り、侍女の阿波内侍とともに尼となって寂光院で余生を送った。
その歴史を紐解くと・・・・・・
源平合戦は。次第に激化し、その戦乱のさなかに清盛が没すると、戦いは一気に源氏側の優勢になった。そして源義仲(木曾義仲)が京都に入り、その直前、平家一門は安徳天皇・二位の尼(平時子)・建礼門院らとともに西海に落ち延びていきました。
これに対して源氏は源義経を中心とする軍勢が一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で次々と平氏を打破。
船上で平氏の大将・平知盛は女たちに敗戦を告げます。二位の尼は天皇家の三種の神器である草薙の剣を腰に帯び、八尺勾玉を脇にはさみ、孫である安徳天皇を抱いて船縁に進みました。数えの8歳の安徳天皇が「尼御前、私をどこに連れていくのか」と問いますと、二位の尼は「波の下にも都はございましょう」と告げ、そのまま海に飛び込みました。
二位の尼に続いて建礼門院が飛び込み、続いて大納言佐局(平重衡の妻)が三種の神器の内のもうひとつ八咫鏡を持って海に飛び込みました。
しかしそこに源氏の武士たちが船に飛び移って来ました。武士たちはまだ波間に漂って沈みきっていない二人の女を引き上げ、その一人の女が建礼門院であった。
壇ノ浦で救われた建礼門院は京都に護送され、髪をおろして出家します。時に29歳。そして女房の一人右京太夫の助言で大原の地に庵を結びました。彼女はここで亡くなるまで28年もの年月を静かに念仏で過ごして、平家の人々の霊を弔います。
今までの寺院と違って、哀しみと侘びを感じさせる。
平成12年5月9日の不審火で焼失。この際、本尊の地蔵菩薩立像も焼損し、堂内にあった建礼門院と阿波内侍の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものという)も焼けてしまった。現在の本堂は平成17年6月再建された。同時に新しく作られた本尊や建礼門院と阿波内侍の像も安置されている。
おはようございます。続いていますね。当時、寂光院の焼失のニュースは、衝撃的でした。歴史的な遺物や建築は燃えたらどうしようもありませんね。平家伝説がますます、はかないものになるようです。
by whitered (2008-10-19 08:29)